2025/08/04
バウハウスから学ぶ/インテリア史・建築史
今回はバウハウスについてお話ししました。特に、当時の教授陣や学んでいた内容、そしてバウハウスの始まりから終わりまでの歴史を学ぶ中で、現代でも名の知れた著名な方々が多数いらっしゃったことに深く興味を惹かれました。この動画を通して、知識が少し増え、レベルアップできたように感じています!
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ボス:今回は、前回少し話したバウハウスのおさらいをしていきたいなと・・バウハウスと言ったら?
スタッフ:美術系大学・・・すごい人が教授だった・・
ボス:そうそう。ドイツの造形学校で、バウハウスというのはドイツ語で「建築の家」という意味。最終的に芸術系、プロダクト系も行き着く先は建築というのが、ここの学校の根本にあるところ。もともとルーツっていうのが、1800年半ばぐらいに蒸気船や鉄道が増えていった。ヨーロッパで・・特にイギリスなんだけど、産業革命が起こり社会が発展して、いろんなものが大量生産されて、安価で売られた・・粗悪品も非常に多かった。
ウイリアム・モリスとかが「手仕事だよね」ということで主張した。これが なに運動だったけ?
スタッフ:アーツ・クラフツ運動?※正しくはアーツ・アンド・クラフツ運動
ボス:そうそう。同時期にイギリスのジョンラスキンという人も、昔は丁寧に物をつくっていたのに最近そうではなくなっているから、昔を思い出してつくろうという考えがうまれていった。日本だったら夏目漱石、他にはガンジーなどに影響を与えている人なんだけど。
イギリスで起こったアーツ・アンド・クラフツ運動の影響で、ドイツでも建築家や工芸家が中心になって、芸術と産業を融合させるような「ドイツ工作連盟」というのができた。製品の質を向上させて、安定的に提供できるよう規格化もして。このインダストリアルデザイン・・工業化デザインは日本でもベースとなっているよね。インダストリアルデザインをしたところ。
そこの主要メンバーの一人に、ヴァルター・グロピウスという人がいて、その人が初代校長としてつくったのが1919年の「バウハウス国立造形学校」。 芸術分野はいろいろあるけども、最終的には建築に行き着く。ものを飾るには、それを飾る場がいるし、空間デザインも大切・・そういう考えの学校をつくった。独自の教育システムをつくっているから教授陣もすごい人ばかり。 ヨハネス・イッテン、ワシリー・カンディンスキーはロシアから引っ張ってきた人。
基本教育(座学)と実務の2つがあって、座学では考え方、理念や表現、構成を勉強して。実務の方は各ゼミみたいな、工房に入って先生に木工、ガラス、陶器、陶芸を学ぶ・・まさに大学。
この基本教育をつくり上げたのが、ヨハネス・イッテンで、色彩の神様と言われている人、色彩学というところをつくった人。機能的主義と芸術的主義をミックスさせてつくり上げたすごい人。
ものを作る時に、機能だけでもだめだし、芸術的なものだけでもだめというので、その両方を組み合わせて基礎教育というか、基本教育のプログラムをつくった人。この人が色の神様と言われている理由は、色彩の対比が7色あるとか、色って3色に区別できるとか、補色の関係とか・・そういうことを説いた人。イラストレーターやってたらRGBとか、印刷機だったら同じように3色から構成する、緑の補色は赤で一番対比しているとか・・。
例えば、眼科で視力検査するときに、「赤と緑どちらがよく見えますか?」って聞かれるよね?
これは、眼鏡とかコンタクトの度数が適正かどうかをみているらしいよ。緑は波長が短く、赤は波長が長い。
何が違うかっていうと・・・
赤がよく見える=目の奥まで届いている。近視の場合、赤がよりはっきり見えると、レンズの度数が弱いまたは適正の場合がある。
逆に緑がよく見える=眼の手前側でピントが合う。緑がよりはっきり見えるとレンズの度数が強すぎると言われている。
「赤と緑が同じように見えます」っていうのが、 一番適正なレンズの度数になっているんだって。その波長をいかして視力検査をしたりしているってことだね。色は波長だから、虹も内側が紫で外側が赤っていうのも波長の長さで変わってるんだよね。
話しがだいぶそれてしまったけど、話しを戻すと色彩の神様のヨハネス・イッテンは、初代校長のグロピウスとそりが合わなかったから、4年ぐらいで解雇されてしまう。
その後に来たのが、モホリ=ナジ・ラースロー。この人がヨハネス・イッテンのあとに、グロピウスと一緒にやっていた。
この人は、写真やタイポグラフィーをやっている人で、フォトモンタージュが有名。フォトモンタージュは写真を切り貼りしたアート・・今でいう、グラフィックデザイナーみたいな人だね。
それから、この時代は経済があまり良くない・・政治的な圧力が結構かかり、一回バウハウスが閉鎖されるんだよね。たぶん、色々な国から先生や生徒も来ているから、自由にやっている感があったんだね。表現の自由みたいな?だから、政治家は国の思想に合わないと圧力をかけて閉鎖させた。
そこで、国立がだめであれば他の市でやろうと、デッサウ市というところで市立として、またバウハウスを再開させた。その時にできた建物っていうのが、みんなが検索してみるバウハウスの建物。ここの新しいバウハウス校舎をつくったのが、初代校長のグロピウス。
2代目校長ハンネス・マイヤーの時代が、バウハウスで最盛期と言われていて、ずっと赤字だったのが初めて黒字に変わった。家具の分野だったら機械を使って大量生産ができるようになった。家具をパーツ化して規格化することによって、色を変えてみたりとか・・工業化デザインが確立されていった。
スタッフ:大学で家具をつくっていたんですか?
ボス:そう。工房があるからそこでつくっていた。この人は非常に合理的な人だから、芸術性を排除して生産性を重要視した。そこでグロピウスと合わなくなったみたいだよ。グロピウスがスカウトしにいったんだけど「スカウトは間違いだった」と言っているくらい。マイヤーは生産性を上げて、一般の庶民階級までいいものを届けるという意味で、芸術性を排除していったんだけどね。
それから、このデッサウ時代はバウハウス校舎が建物としては有名。それ以外にも、1期生にワシリーチェアを設計したマルセル・ブロイヤーがいたり、書体ユニバーサルを設計したヘルベルト・バイヤーがいたり。
1930年には、3代目の校長ミース・ファン・デル・ローエになった。バルセロナチェアをデザインした人。
この言葉も有名だから聞いたことあるかな?
「less is more」「神は細部に宿る」
ちなみに、建築ではファンズワース邸が有名。ミースの彼女(女医)であった、ファンズワースさんのためにつくった家なんだけど、価格が予算からオーバーしすぎて、彼女から訴えられたらしい・・でも、裁判でミースが勝ち全額もらったみたいだね。
この建築物は、水平ラインとかとてもきれいだよね。床上げして湿気もないし、めっちゃいい家なんだけどね。
話しを戻すと、ミースが校長先生になって、 3年ももたずに政治的弾圧を受けて終わった。1933年にバウハウスは完全に閉鎖されてしまう。当時、弾圧をかけていたのがナチスで、バウハウスがあったデッサウ市の市長もナチス党の党員だったんだよね。1919年から1933年までだから、14年間でなくなってしまった・・これが、バウハウスの大体の概要。
因みにその後、教授たちはどうしたかというと。初代グロピウスはバウハウスがなくなったあと、イギリスに亡命して最初アメリカに渡って、ハーバード大学の建築学科の先生になった。ルーブル美術館のガラスのピラミッドをつくった、イオ・ミン・ペイとかがそこで学んでいた。
ミースもアメリカに亡命して、大学の教授になってる。この時、第2次世界大戦ぐらい・・ナチスの手から逃れて、アメリカに亡命する人は結構多かったみたいだよ。
当時、ドイツは色々な分野で最先端をいっていた。NASAの初代所長も同じように亡命していた。非常に優秀な人が揃っていたっていうのがドイツ。
それから、こういったバウハウスの思想は、色々な人に影響を与えていている。日本人にもバウハウスにいった人がいて、茶道の裏千家山脇美智子さんとその婿養子の旦那さんとか。
バウハウスで500人ほど卒業生を生んでいる。その考えや現代の工業化デザインの基礎をつくったのはバウハウスなんだよね。
ボス:これがバウハウスの大まかな全容です。教授陣の顔を検索すると、クセ強そうでしょ?
スタッフ:確かに・・目力?なんか強そうにみえますね。
ボス:そうだね。やっぱりデザインを実現させるには強くないといけないからね。
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